おじいちゃんの仕事
どうも、県太郎です。
突然ですが僕のおじいちゃんの話をします。
幼い頃の思い出なので間違いがあるかもしれませんが、どうか読んでみてください。
県太郎という一風変わった名前はおじいちゃんが考えてくれました。
そのおじいちゃんは今では遠くにいます。
瞼を閉じればそこにおじいちゃんの優しい顔は浮かびません。
どんな顔だったか思い出そうとすると、おじいちゃんの家にあった掛け軸の猿が出てきます。
薄く透けた記憶の向こうに、写実的な猿が一匹鎮座しています。
おじいちゃんについてよく思い出すのは時々着物を着ていたということです。
いつもはヨレヨレの寝巻姿で近所を歩くおじいちゃんにもよそ行きの姿がありました。
僕の住んでいた町には田舎特有の巨大な公園がたくさんありました。
町内で一番大きな「第八公園」には立派な野外ステージがあります。
もっと言うと野外ステージしかありません。
遊具もない退屈な公園、綺麗な芝生をむしりまくった記憶があります。
ある日おじいちゃんに連れられて第八公園に出かけました。
「もう秋だね」
「そうだね」
まだ暑さの残る夕暮れ時にどうして秋を感じたのかはわかりませんが
めんどくさがりの僕は適当に相槌を打って薄暗い道を二人で歩きました。
野外ステージは明るく照らされて、太鼓や笛の音が聞こえます。
「お祭り?」
「ちがうよ」
「みんな何してるの?」
ステージの前にはパイプ椅子が並び、20人程の近所のお年寄り(今思えば50才以上の人たち)が点々と座ってステージを眺めていました。
「おじいちゃんは仕事をしてくるからね、待っててね」
「どこに行くの」
急に不安になった僕は聞きました。
「すぐそこだよ」
しわしわの人差し指が遠慮がちにステージ中央に向けられました。
「ここで見ててね」
大人用のパイプ椅子に乗せられた僕は、その日おじいちゃんが着物だったことに
初めて気づきました。
おじいちゃんの仕事ってなんだろう。
待ってました!
大きな声と拍手。
声の方を振り返ると酒屋のおじさんが赤ら顔で手を叩いています。
他の人たちも嬉しそうにステージを見ています。
着物に身を包みゆっくりと袖から現れたおじいちゃんがステージ中央に静かに正座すると、それからまた拍手が鳴りました。
お辞儀をしてまっすぐ前を向いたおじいちゃんが言いました。
「今日で終わりにしたいと思います」
思いがけないその言葉に何故か涙が出そうになったのを覚えています。
そのあと何を言っていたのかは子供だった僕にはわかりませんでした。
10分程何かを話してまた最後にお辞儀をして拍手が鳴りました。
こんな仕事があるんだと驚きました。子供には到底理解できません。
「県太郎、もう帰ろう」
いつものヨレヨレ寝巻のおじいちゃんが立っていました。
「おじいちゃん、仕事終わったの?」
「終わったよ。終わったんだよ。」
来た時と同じように手をつないで歩きだしました。
「面白かったかな?」
「なんて言ってるかわからなかった」
「県太郎は正直だね」
おじいちゃんは笑っていました。
「おじいちゃんの仕事って、らく…ご…っていうの?」
「そうだね落語みたいだけど少し違うんだ」
「そうなの?じゃあなんていうの?」
「こかげの話っていうんだよ」
「なあにそれ?」
「わからなくてもいいんだよ、今日で終わったからね」
遥か向こうに車が走っています。辺りは暗く、鈴虫の声だけが聞こえます。
遠くから届く車のライトがおじいちゃんと僕をほんのり照らします。
仕事を終えたおじいちゃんの横顔はさわやかだった気がします。
小学校3年生の僕はそう記憶しました。
10年後、僕は少し離れた町の図書館で働きはじめました。社会人1年目です。
ほとんど貸し出されなくなった本を整理するという業務を与えられました。
書庫の大半はもう捨ててもいいんじゃないかという内容の本に見えるのですが、
「いつか誰かの役に立つはずだから大事に扱えよ」と先輩に釘を刺されました。
その先輩曰く、本は過去と現在を繋ぐ魔法だそうです。
そんなお話を聞いた直後、僕は本を棚から落としてしまいました。
年季の入った分厚い本でした。
ページを留める紐がほつれ、数百枚の紙片が床を埋め尽くしました。
今こそ魔法がほしいところですが、そんなこと言っている場合ではありません。
いつか誰かの役に立つというのは本当だろうか、そう思うほど古びた
なんの面白みもなさそうなその本。
表紙には「木蔭話」と印字されていました。
鋭い目をした猿が僕の頭をよぎりました。