金の写真

久しぶりに実家に帰ると父も母もどこかに出かけていました。

自分の部屋を整理していたところ懐かしい写真を見つけました。

中学の修学旅行。奈良、京都、大阪から帰ってきて地元の駅で撮った軍ちゃんの後ろ姿。

友達がいなかった僕はどこで何を見ても楽しくなかった、だから27枚撮りのインスタントカメラを二泊三日、一度も使わず地元に帰ってきたのです。

駅で解散となり、足早に帰っていく軍ちゃんの姿が目に留まりました。

軍ちゃんもきっと楽しくなかった。勝手にそう思いました。

駅前のコンビニ、遠くに自販機の明かり、ずんずん歩く軍ちゃんの方にカメラを向けました。シャッターを切ったつもりがカメラのダイヤルを回してなかった。慌てて、回してシャッターを切ると、被写体は自販機の遥か向こうを歩いていました。

写真に写っているのは手前のコンビニと遠くの闇、自販機すら確認するのは難しく、人ひとり映っていない写真です。

ですが僕は軍ちゃんを撮っています。映っていなくとも撮った僕にはわかります。

いや、そんなことはどうでもいいのですが。

 

同じアルバムに気になる写真を見つけました。

金色に光る長方形、その中にカメラを持つ手、手には結婚指輪。

おそらく鏡に映った母の手だとは思うのですが、なぜこんな写真があるのか不思議です。

母は写真を撮る趣味はなく、きっとフィルムがもったいないから撮ったのでしょう。

そうこうしていると、母が帰ってきました。

「あら、帰ってたの?」

「うん、この写真、何?」

「え?これテレカじゃない?うん、懐かしい写真!」

「テレホンカード?」

「たぶん、京都で買った金閣寺プレミア純金テレカ」

「あ、そうか、だから反射して手が映ったんだ」

「そうそう、現像して気づいたの、反射してるって、面白いでしょ」

それよりなんでこんな写真を撮ったのだろう。

珍妙な写真を眺めながら、気になっていることを何気なしに聞いてみました。

「お父さんは?」

「連絡なし。以上」

母は笑いながらそう言って急須でお茶を入れ始めました。

急須を傾ける母の手に指輪は見えません。

暖かいほうじ茶を腹に入れて、実家を後にしました。

 

アパートに戻ると母からメールが届きました。

「体に気を付けてね」

僕は聞き忘れたことがあったのでそのことをメールで綴りました。

「なんであんな写真撮ったの?」

「テレカを捨てる前に記念に撮りたかったの!」「あれは新婚旅行で行った京都のお土産!笑。金閣寺良かったよ~笑笑」

返信に戸惑う内容でしたが、迷わないうちに早く送信しました。

金閣寺なら修学旅行で行った!一人で見たから寂しかった!笑」

 

金閣寺プレミア純金テレカ。なんとも母らしいセンスです。

はて、使用済みの穴は開いてただろうか。

と考えたのですが、あの母なら未使用のテレカは捨てないか、とも思いました。

写真の中の母はきっと笑っていたでしょう。

映っていなくてもなんとなくわかるものです。

 

僕だけのいじめっ子

やりたいことやればいいんだよ。

中学3年の夏、軍ちゃんはファンタグレープをラッパ飲みしながら僕にそう言いました。

軍ちゃんは中2の夏のプールの時に軍足姿がクラスメイトに露呈してしまい、それ以来軍足というそのままのあだ名がつけられてしまったその軍ちゃんです。

軍ちゃんはいつも僕にだけ偉そうでした。

つまり軍ちゃんはクラスのいじめられっ子です。

そして、つまり、僕はクラスで孤立した存在です。

僕にとって軍ちゃんだけが話し相手でした。

でも僕は心のどこか隅っこで、軍ちゃんをバカにしていました。

だから「やりたいことやればいいんだよ」というその言葉は、何一つ心に響かないのです。

受験勉強をそろそろ始めよう、と思った日に限って予定を抑えてくる軍ちゃんにその頃僕はとてもイライラしていました。 

 ある日の下校中のこと、近くから軍ちゃんの声が聞こえてきました。

「ないよ、何もないよ」

「あるだろ」

「だから、無いって」

もう一人の声はハシブトだろうか。

ハシブトは誰彼構わず絡んでいく嫌な奴で軍ちゃんさえも嫌っている男なのです。

 

押し黙った軍ちゃんの横顔が見えました。

翌日から軍ちゃんは学校を休みました。

そしてそれ以来会うことはありませんでした。

僕は本当に孤立してしまい、居場所のない教室で息を押し殺していました。

僕にとっての軍ちゃんはいじめっ子でした。

ただそれだけの関係です。

今日はそんな軍ちゃんのことを思い出しました。

 

今、軍ちゃんはやりたいことができていますか。

いや、今でもやりたいことはありますか。

僕はやりたいことがありません。

 

 

まるで天狗にでもなったかのように

その頃の遊びといえばコマだったりチャンバラだったり、相撲とってるガキもいた。大人たちはよくわかんない札を並べて小遣いあっちやったりこっちやったり、酒飲んでくだらない話して一日過ごしているようなのが多かった。

何より小さな部落はこれと言ってやることがなく、仕事だって現代のような働くなんて感覚はなくて、仕事も遊びもただの生活だったような気がする。

そんなただただ生活でしかなかった毎日に新たな風が吹いたのは私が10才の頃。

東京からの旅人がこの近くのボロ宿に長逗留をしていたことがあった。

近所のガキがその旅人から飴をもらったという噂が広まると、私も含めた多くの鼻たらしが宿の周りを取り囲んで遊ぶようになっていた。酷いのになると旅人が居るであろう部屋の窓に石を投げつける奴までいた。

もちろん宿の親父は黙っちゃいない。薪雑把片手に駆けだすと悪ガキたちを追い散らす日々がしばらく続いた。

私も例に漏れず宿の前で遊ぶようにしていた。断っておくが飴が欲しかった訳ではない。旅人に興味があった。

来る日も来る日も学校が終われば宿の前に集まっていた。コマやったりチャンバラやったり相撲やったり、最後は泥んこ遊びで服を汚しては母親に頭叩かれて泣いていたのを思い出す。

それでもなかなか旅人は顔も見せてくれない。

飴なんかもらえねえよ。そう言って去っていくガキ大将に付いていく子もいた。

一人減り二人減り、どんどんいなくなって気づけば私とあと数人。

宿の中で死んでるんじゃないのか。誰かが言った。

そのとき、二階の一室の窓がガラッと開いて眼光鋭い男がこっちを睨んだ。

私は怖くて足が震えていた。目の焦点が合わず、泣いていたかもしれない。

じっとこっちを見ているその顔は鼻の短い天狗みたいだった。

右手の煙管を口元へ運ぶ。その仕草が堅気じゃないことぐらい子供でも分かった。

「この辺に広場はあるかい」

「…」

誰も何も答えない。

男が目を細める。持っていた煙管で西日の方向を指した。

「あそこに大きな一本杉があるだろう」

私は何を聞かれているのかよくわからなかった。

「明日学校が終わったらあそこに来なさい」

「あそこはあぶねえから入っちゃいけねえって父ちゃん言ってた…」

友達の六助が全身を振り絞るように答えた。

「どうして危ねえんだい」

「天狗様がいるからって…」

男の眼光は鋭さを増した。顔は激しく怒鳴り散らす寸前のそれだった。

ところが表情がにこりと緩むとそのあとフフッと笑った。

「天狗なんざぁ怖くねえよ」

煙管の雁首を器用に窓枠に引っ掛けた。

ガラガラガラという音とともに男の姿は見えなくなった。

 

「ありゃあ天狗様だ」

「でもあんなに鼻の短え天狗はおるだろうか」

「きっと一本杉の前で本性を現すに違えねえ」

「じゃあ何だい、六助はもう帰っちまうのかい」

「いやそうじゃねえ、おらんとこの家の前で遊ぼうって話してんだ」

「おらは行くぞ、一本杉」

「本物の天狗様だったらどうする」

「それでもいいんだ、六助は根性無しだな」

下校中、私は六助を振り切るように駆けだした。

通学路を外れて近道と呼ばれる畦道に入った。

立ち止まらないように、引き返さないように一歩一歩強く踏みしめた。

一本杉の前まで来ると汗だくの体にさわやかな風が吹きあたった。

恐怖心はあったがそれ以上に期待が込み上げていた。

私は旅人がこの村に来たことで何かが変わっていく気がしていた。

一本杉の木蔭には30人程の大人が集まっていた。

普段あそこには入っちゃいけない、なんて言っていた大人たちがいる。

車座になってその真ん中に昨日の天狗、いや旅人が座っていた。

毛氈を敷いた上に羽織姿の旅人が正座をしている。

私も大人の背中に隠れて座った。

旅人の話は古今東西ありとあらゆる分野に至るもので、私はその話しぶりに完全に引き込まれていた。不思議で不埒で下世話で、それでいて面白い。

こんなに面白い話を聞いたのは初めてだった。時間も忘れて笑っていた。

この辺でお開きにしましょう。旅人がそう言ったころには、誰の顔も判別がつかないぐらい真っ暗闇だった。

 

翌日、学校に着くなり六助がこっち向かって飛んできた。

「一本杉の天狗どうだった」

私は見たこと聞いたことを思い出せる限り六助に話した。

私の拙い喋りがどこまで伝わったのかはわからないが、六助は笑い転げていた。

それから六助は何度もその話をせがんできた。

あの日一本杉の木蔭で聞いた話は木蔭話と呼ばれるようになった。

木蔭話は学校中に広まり私の周りには多くの鼻たらしが集まるようになっていた。

 

「なあ木蔭話してくれよ」

「では馬鹿馬鹿しいのを一つ…」

今日も一本杉には多くの人が集まっている。

不思議で不埒で下世話な話を偉そうに語って聞かせる。

まるで天狗にでもなったかのように。

それでも群衆は笑っていた。

 

【木蔭話】より抜粋

 

 

 

犬の問い

どうも県太郎です。

12時になるとお昼を食べて歯を磨きます。

そのあとお気に入りの本を読み返してお昼休憩は終わりです。

昼一番はお客さんのリクエスト(希望図書)をPCに入力していきます。

最近はドラマの影響でロボット工学に関する本のリクエストが多くあがります。

僕はあまり興味がありませんが。

黄ばんだWindows98は今日もなかなか言うことを聞いてくれません。

もういい加減新しいPCを買ってもいいでしょう。自治体の皆様、宜しくお願いします。

 

ふと気付くと受付にはそこそこの行列ができていました。

すぐさま助太刀しなくては。お待ちのお客様こちらへどうぞ。

貸出コーナーのお客さんを捌きながら横目で見ると、行列の原因がわかりました。

隣の窓口には大きな眼鏡をかけた困り顔のフジさんがいました。

フジさんはよく来こられる若い女性の方で、もちろんあだ名です。

いつも前髪を後ろに持っていく(リーゼントっぽい?)髪型で、そこに見事な富士額がそびえます。

だからフジさん、と心の中で命名しました。

フジさんは来る日も来る日も図書館、古書店、歴史博物館、大学などを巡り、ある一冊の書籍を探求しているそうです。

 

ある日のこと、受付に座る僕にフジさんは小さな紙を差し出しました。

僕は何のことかもわからず、そこに書かれた一文を小さく読み上げました。

 

犬の問い、取り払う手も、お留守する、表裏、針と糸の縫い

 

引きちぎられた形跡の紙片、古い活版印刷の文字。

「この本と同じものを探しています。同じ本を見つけて祖父のお墓参りに持っていきたいのです、祖父は俳句や詩を好んでいましたので、その類の書籍の一文だと思うのですが」

訥々と静かに語るその声がとても綺麗だったことを覚えています。

 

 

あの日から半年以上は経っているのですが、当然何の手掛かりもないままです。

今日もフジさんはそのきれいな顔の眉間に小さな皺を浮かべていました。

 

 

おでこを出す髪型に名前はあるのかな。

そんなことを考えながら、気づけばもう夕方です。

ぼうっとしている一日がすぐに終わってしまいます。

でもぼうっとしてなくてもすぐに終わるんだと思います。

それが良いことなのか悪いことなのか、わかりません。

そんな一日が明日もやってきます。

 

 

毎日掃除できるだけのゴミがあるからね

県太郎です。

あっという間に一日が終わります。

 

ここ数日の僕の仕事鞄はパンパンで、重くて困っています。

中には先日落とした図書館の本がばらばらになったまま入っています。

それを職場に置いていく訳にはいかず、かといってこのまま棚に戻すのも後ろめたく

でも修繕する気持ちもありません。

僕には重くて仕方ありません。

悪いのは僕ですが。

 

大きな鞄を引きずるように帰ります。

帰りの電車の中はガラガラで居心地は最高です。

鞄を枕に横になります。

夕方のラジオはとてもお洒落な洋楽です。

お洒落すぎてこんな片田舎には似合わず、早々にスイッチを切りました。

 

寝過ごしました。一駅分です。

よく知らない駅、なんとなく降りてみようと思いました。

寝ぼけながらも慌てて駆けだします。

11月ですから当然寒いのですが、普段降りることのない駅は余計に寒く感じます。

貧乏性なので、歩いて帰りたいと思います。そこまで時間はかからないはずです。

駅から数十メートル歩くと公園があり、初老の女性が掃除をしていました。

ビニールや紙くずをゴミ袋に入れています。

初老の女性は初老らしくない動きでキビキビと掃除をしています。

ということは初老ではないのでしょうか。

なんとなく話しかけてみました。

「大変ですね、手伝いますよ」

怪訝そうに上げた顔は思った以上に若くてどちらかと言えば年配という顔立ちでした。

「ああ、いえ、大丈夫ですよ」

「毎日されてるんですか」

「…そうね、朝と夕方、毎日」

「朝と夕方ですか。それは大変じゃないですか」

「毎日だからもう慣れっこだけどね」

愛想笑いではありますが、にこりとほほ笑んでくれました。

僕は言いました。

「どうしてポイ捨てするんですかね、そんな人がいるって信じられませんよね」

「そうかな」

「どうして毎日掃除しているのですか」

「毎日掃除できるだけのゴミがあるからね」

「…そうですか」

どういうことか聞き返したかったのですが、やめました。

やんわりとその場を離れて早歩きで帰りました。

 

靴も鞄も投げ出して布団に横になりました。

胸の奥がザワザワしていました。

初老の女性が掃除をする理由は僕にはわかりませんし、あまりこのことを考えたくありませんでした。

そうこうしているうちに眠りに就いていました。

本は明日修繕したいと思います。

 

あ、初老ではなく年配でした。

 

苦いコーヒー

「やあ」

中吉さんが喉を低く鳴らしました。

「ども」

僕は年上の友人に小さく挨拶を返しました。

中吉さんに会うのは嬉しいけどもなんだか照れ臭いです。

 

僕はこの人の本名を知りません。

初めて会った日に面と向かって「中吉って呼んで」と言われました。

いきなり言われて最初は何のことかはわかりませんでしたが、どうやら仲間内でのニックネームらしく、その名の由来を聞くと「これまでの人生におけるおみくじの結果が全て中吉だから」という謎のエピソードに僕は妙に納得してしまいました。

 

中吉さんとの出会いは2年前。はじめてボトルシップ同好会に足を運んだ日でした。

ボトルシップは瓶の中にピンセットを使って小さな船の模型を組み立てるという、あれです。

とても地味ではありますが、僕の大切な趣味です。

15歳から始め、毎日学校から帰ると一人その小さな世界に没頭していました。

作品の数が二桁に増えた頃、僕はこの趣味を誰かと分かち合いたくなりました。

自分だけが知る苦悩とこだわりを、完成の喜びを、誰かと共有したいのです。

調べてみると自分の住む地域にも同好会は存在し、半年に一回開かれるギャラリーには会員以外も参加できるようになっていました。

中吉さんとはそこで出会いました。

年齢が二回り上の中吉さんは僕に友人として接してくれました。

諸事情でボトルシップ同好会に入ることはできませんでしたが、それでも中吉さんは僕のことを気にかけ、時々連絡をくれました。

 

「ブラックください」

「はい、ブラックね」

「お願いします」

テレビを見ながら注文をとるおばちゃんに中吉さんは小さく会釈をしました。

「コーヒーって苦いですか?」

「苦いよ」

「苦いのに飲むんですか?」

「苦いから飲むんだよ」

灯油臭いコートを丸めると隣の席にそっと置きました。

指のささくれを気にしているのか拳を握っています。

「紅茶飲まないの?」

「おいしくないんですよ、ここの紅茶」

「そうなの?なにか頼もうか?」

「大丈夫です」

「そっか」

中吉さんの拳が開くと、細くて色の薄い指がテーブルに並びました。

「ボトルやってる?」

「やってますけど最近は仕事忙しくて」

「それが一番だよ、仕事してないと趣味も熱中できないよ」

「仕事って必要ですかね」

「必要でしょう、仕事なかったら家族養えないよ」

中吉さんには別れた奥さんと子供がいるらしいのですが、そのことに僕はあまり興味がありません。

ですが時々中吉さんのスマホの画面にツーショットの写真が映るのを見てしまうことがあります。

照れ笑いする中吉さんとその隣にいるのはきっと息子さんです。よく似ています。

「はい、ブラック、ごゆっくりどうぞ」

おばちゃんはコーヒーカップを置くとカウンターへ戻っていきます。

「あの」

中吉さんが呼び止めました。

「砂糖とミルクをください」

「はいどうぞ」

おばちゃんはそれらを引き渡すとそそくさとカウンターに戻っていきました。

「県太郎くんは仕事やめちゃだめだよ」

そう言うと冷めた紅茶の傍らに砂糖とミルクを並べてくれました。

 

茶店を出て商店街を抜けると、近くの模型屋を物色してあとは帰るだけです。

帰りのバスの中で、中吉さんは仕事をやめたことを手短に教えてくれました。

その事実に少し驚きましたが、それよりも雨に濡れたコートと傘が僕に当たらないように気を付けているその姿がとても印象的でした。

僕のアパートの前まで来ると中吉さんはいつもの照れ笑いを見せて帰っていきました。

最後に「ごめんね」と聞こえました。

茶店とバスの代金は割り勘にしました。

「ごめんね」はそのことだったのでしょうか。

 

スマホの画面に映る中吉さんの息子さんはお世辞にも好青年とは言えない不愛想な表情を浮かべていましたが、どことなく高校生の頃の僕に似ている気がします。

親子の間には微妙な距離があり、その二人の遥か向こうには大きな船が映っていました。

世界を旅するようなとても大きな船でした。

 

 

中吉さんと待ち合わせ

県太郎です。

今朝、植木鉢のサツマイモが気になり早起きをしました。

6月に植えた苗が、長い蔓と大きな葉になってベランダ中に広がっていました。

約4ヵ月ほとんど水をあげなかった横着な僕だけど、カレンダーにはちゃんと収穫日の三文字が書き込まれてありました。

久しぶりにベランダを覗きました。2週間前の光景とあまり変わらないようでした。

この2週間は雨が続いてベランダは使えず、1DKの狭い空間では毎日乾くことのない部屋干しが繰り返されていました。

今日も雨雲が通りを濡らしています。

ポリエチレンの植木鉢はいとも簡単に劣化し、ホームセンターで見た鮮やかなグリーンは失われていました。

安物買いの銭失いです。

サツマイモを掘り起こす(正確には引っこ抜く)と細く小さい根のままでした。蔦も葉も枯れてカサカサと音が鳴りました。

長く続いた雨は町全体を濡らしていましたが、そんなことは屋根の下のサツマイモには全く関係がなかったようです。

 

昨夜からつけっぱなしのFMが8時を知らせていました。

歯を磨き、着替えます。

こうして僕の休日ははじまりました。

 

待ち合わせは9時です。

駅近くのレトロな喫茶店、窓際の席にはもうすでに先客がいます。

遅刻したかと思い扉を開けると、先客の正体は近所のおばあさん二人でした。

いつもの席に腰かけるとお店のおばちゃんがお絞りと水を持ってきてくれました。

「紅茶を下さい」

「レモンは大丈夫?」

「はい」

「紅茶、レモン、と」

伝票を書いておばちゃんがカウンターに入っていきました。

埃をかぶったテレビを見ると、川原に落ちているような石が映っていました。

その映像はワイドショーだと知り少し驚きでした。

川原の石を大量に載せた貨物乗用車が夜中の国道で横転し、路上に石が散乱したという報道でした。

どうして石を載せたのだろう。どこに行くつもりだったのだろう。

路上の石に足元を取られた後続車が対抗車にぶつかり、怪我人は2人、石を運んでいた19才の女は書類送検されたという。

警察の調べに対し女は「ただ石が欲しかった」だそうです。

 

「はい、紅茶ね」

気が付くと紅茶と小皿に乗せた輪切りのレモンが運ばれていました。

「お砂糖とミルクは大丈夫?」

「はい大丈夫です」

ここで事件は起きました。

おばちゃんは砂糖とミルクの容器をテーブルに置かず、それらを持ってカウンターに戻っていきました。

僕は砂糖とミルクがないと紅茶は飲めません。

"レモンを付けても大丈夫?"

"砂糖とミルクは付けなくても大丈夫?"

おばちゃんの問いには大きな落とし穴があったのです。

そう、わかっています。大丈夫という曖昧な返事をした僕が悪いのです。

とはいえ、もう一度言いますが僕は砂糖とミルクがないと紅茶は飲めません。

おばちゃんはカウンターに肘を付いてテレビを見ています。

すみません、お砂糖とミルクをください。

僕の声は小さすぎて誰にも聞こえませんでした。

ただ湯気の立つ紅茶を見ているだけでした。 

 

カラン、コロン。

扉が開くと、照れくさそうな中吉さんの姿がありました。

とても40代には見えない禿げた頭と、みすぼらしい薄手のコートはねずみ男を連想させます。

「遅れてごめんよ」

「全然大丈夫です」

 

続く