苦いコーヒー
「やあ」
中吉さんが喉を低く鳴らしました。
「ども」
僕は年上の友人に小さく挨拶を返しました。
中吉さんに会うのは嬉しいけどもなんだか照れ臭いです。
僕はこの人の本名を知りません。
初めて会った日に面と向かって「中吉って呼んで」と言われました。
いきなり言われて最初は何のことかはわかりませんでしたが、どうやら仲間内でのニックネームらしく、その名の由来を聞くと「これまでの人生におけるおみくじの結果が全て中吉だから」という謎のエピソードに僕は妙に納得してしまいました。
中吉さんとの出会いは2年前。はじめてボトルシップ同好会に足を運んだ日でした。
ボトルシップは瓶の中にピンセットを使って小さな船の模型を組み立てるという、あれです。
とても地味ではありますが、僕の大切な趣味です。
15歳から始め、毎日学校から帰ると一人その小さな世界に没頭していました。
作品の数が二桁に増えた頃、僕はこの趣味を誰かと分かち合いたくなりました。
自分だけが知る苦悩とこだわりを、完成の喜びを、誰かと共有したいのです。
調べてみると自分の住む地域にも同好会は存在し、半年に一回開かれるギャラリーには会員以外も参加できるようになっていました。
中吉さんとはそこで出会いました。
年齢が二回り上の中吉さんは僕に友人として接してくれました。
諸事情でボトルシップ同好会に入ることはできませんでしたが、それでも中吉さんは僕のことを気にかけ、時々連絡をくれました。
「ブラックください」
「はい、ブラックね」
「お願いします」
テレビを見ながら注文をとるおばちゃんに中吉さんは小さく会釈をしました。
「コーヒーって苦いですか?」
「苦いよ」
「苦いのに飲むんですか?」
「苦いから飲むんだよ」
灯油臭いコートを丸めると隣の席にそっと置きました。
指のささくれを気にしているのか拳を握っています。
「紅茶飲まないの?」
「おいしくないんですよ、ここの紅茶」
「そうなの?なにか頼もうか?」
「大丈夫です」
「そっか」
中吉さんの拳が開くと、細くて色の薄い指がテーブルに並びました。
「ボトルやってる?」
「やってますけど最近は仕事忙しくて」
「それが一番だよ、仕事してないと趣味も熱中できないよ」
「仕事って必要ですかね」
「必要でしょう、仕事なかったら家族養えないよ」
中吉さんには別れた奥さんと子供がいるらしいのですが、そのことに僕はあまり興味がありません。
ですが時々中吉さんのスマホの画面にツーショットの写真が映るのを見てしまうことがあります。
照れ笑いする中吉さんとその隣にいるのはきっと息子さんです。よく似ています。
「はい、ブラック、ごゆっくりどうぞ」
おばちゃんはコーヒーカップを置くとカウンターへ戻っていきます。
「あの」
中吉さんが呼び止めました。
「砂糖とミルクをください」
「はいどうぞ」
おばちゃんはそれらを引き渡すとそそくさとカウンターに戻っていきました。
「県太郎くんは仕事やめちゃだめだよ」
そう言うと冷めた紅茶の傍らに砂糖とミルクを並べてくれました。
喫茶店を出て商店街を抜けると、近くの模型屋を物色してあとは帰るだけです。
帰りのバスの中で、中吉さんは仕事をやめたことを手短に教えてくれました。
その事実に少し驚きましたが、それよりも雨に濡れたコートと傘が僕に当たらないように気を付けているその姿がとても印象的でした。
僕のアパートの前まで来ると中吉さんはいつもの照れ笑いを見せて帰っていきました。
最後に「ごめんね」と聞こえました。
喫茶店とバスの代金は割り勘にしました。
「ごめんね」はそのことだったのでしょうか。
スマホの画面に映る中吉さんの息子さんはお世辞にも好青年とは言えない不愛想な表情を浮かべていましたが、どことなく高校生の頃の僕に似ている気がします。
親子の間には微妙な距離があり、その二人の遥か向こうには大きな船が映っていました。
世界を旅するようなとても大きな船でした。